星の見える東京
狛江の歴史

江戸時代から振り返る、多摩川の歴史

多摩川の歴史を振り返る

この記事では、多摩川と人々との結びつきを江戸時代から順にざっくりと追いたいと思います。

 

多摩川と江戸

その昔、江戸時代の人々にとって、多摩川はとても重要な役割を果たしました。

1654年、徳川4代将軍家綱の時代に、多摩川の水を江戸中心部に導水する「玉川上水」が完成し、以降、江戸と多摩川の結びつきは深まっていきます。

030827 2
画像 : 玉川上水[概況図]

画像 : 玉川上水 | Photo AC 

江戸で大火事が起きるたびに、多摩川上流域の木々を伐採し、筏で送るなど、川は街の復興に貢献しました。昔は、中・下流域のおける漁業だけでなく、こうした木材の筏流しも重要な産業となっていました。

漁業については、登戸や日野でアユ漁が盛んで江戸城に献上していたと言います。

捕獲された鮎は、「鮎担ぎ」と呼ばれた力自慢が夜通し走って日本橋の鮎の問屋に届けられました。

街道を走りながら、狸よけのために「鮎担ぎの歌」を大きな声で歌い、当時の住民たちが寝床で眠っていると、その歌声が遠くから聴こえてきたそうです。

江戸時代の多摩川の絵地図

多摩川と昭和

江戸時代が終わり、明治以降、徐々に鉄道移動が普及。狛江、和泉多摩川を通る小田急小田原線も昭和二年(1927年)に全線が開通します。

以前、狛江の歴史資料に関する小さな展示会に足を運んだとき、係りのおじさんが、多摩川の重要性について説明してくれました。

多摩川沿いの砂利は昔から貴重な物資で、戦時中や関東大震災の際にも重要な役割を果たし、砂利を採掘しては鉄道で運んでいったそうです。

狛江の市役所のホームページにも、次のような説明書きがあります。

多摩川砂利は貴重な財産で、玉川電車も、京王電車も、小田原急行鉄道も、皆創業当時は砂利運びを大きな収入にしていた。小田原急行鉄道では、和泉多摩川駅の東側から河原まで線路を敷き、トロッコを川の中に引き込んで盛んに採掘していた。

掘った砂利は貨車に積み東北沢にあった砂利置場に運ばれて、都心のビルエ事や道路の舗装に使われていた。

出典 : 狛江市役所 – 多摩川の砂利

しかし、弊害もありました。

この砂利採掘は、戦後の高度成長の礎ともなり、採掘の速度はぐんぐんと上がっていきました。

高度成長前の昭和30年頃までは、和泉多摩川や登戸の周辺も、わざわざ都心から子供たちが泳ぎに電車でおとずれ、「川の家」なども開設されていたと言います。

ところが、この過剰な採掘の影響によって川底がさらわれ、自然環境が壊れていくとともに事故が多発、砂利採取は禁止されるようになりました。

加えて人口増による家庭排水や工業排水の流入が河川を著しく汚染、多摩川は、水泳のできるような川ではなくなってしまいました。

こうして夏に泳ぐ子供たちの風景とともに、風物詩でもあった鮎も姿を消すようになったのでした。

 

多摩川と平成

その後、様々な努力によって徐々に自然も戻り、少しずつ多摩川の水もきれいになっていきました。

鮎も、15年近く前から再び姿を現わすようになったと言います

味も、昔は人工的なシャンプーのような臭いだったのが、この数年は良くなりつつあると古くからの住民は話します。

本来、鮎は「香魚」と言い、かつては春がおとずれ、天然の鮎が遡上してくると、甘いスイカのような清々しい匂いでわかったそうです。

鮎は香魚といわれ、春になり鮎が上がってくると、かつては匂いでわかった。近い将来、鮎の遡上を香りで知るようになった時、本当に美しく自然豊かな多摩川が戻ったといえるのかもしれない。

陣内秀信『水の都市 江戸・東京』より

江戸の住民が五感で味わった多摩川を、いつか体感してみたいな、と思いました。

0