月別アーカイブ: 2018年2月

両親の好きな季節の話

先日、電話で母と季節の話になった。母は、二月が好きだと言う。「もうすぐ春の始まりを感じさせる二月の空気感がいいんだよ」父も冬が好きらしく、両親が揃って冬が好きというのが意外な気がした。母も、父の好きな季節を初めて知って驚いていた。僕からすると、数十年連れ添って季節の話を一度もしたことがないことのほうが驚きだった。

呼吸

ときおり、その空間に立っていられないときがある。その空間にいると押しつぶされて消えるか、弱さが溢れ出そうになる。そうして必死に自分を位置付けようと深呼吸をする。この世界に立っていられるように深く息を吐く。でも、その吐く息に対する罪の意識が、吐息を歌にしようとする。下手くそな歌。だから、鳥のさえずりやミュージシャンの歌声に嫉妬する。

ああ、あんな風に美しい歌が歌えたら、ここに存在をゆるされながら呼吸ができるのに。

そばに寄り添っていたいと思いながら、そばにいることをゆるされない。寄り添っていてほしいと願いながら、遠ざかってゆく。

春が怖い

まだ寒さは厳しいものの、この数日で日差しや風にほんのりと春が香るようになった。あと一月もすれば、多摩川沿いには菜の花が咲きはじめると思う。そして、そのあとにはいっせいに桜が咲き乱れる。

子供の頃の春は、「咲く」季節だった。でも、年齢とともに春は「散る」季節になってゆく。春の柔らかな風も、心地よさとともに閉じていた心の扉をふっと開けようとする。だから、ほんの少し、春が怖い。ざわざわとした不安と、春の悲しみに飲み込まれそうになる。

紀友則の春を詠んだ和歌に、「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」という歌がある。こんなに光ののどかな春の日に、なぜ桜は慌ただしく散っていってしまうのだろう、という春の優しさと儚さを歌ったものだ。

春は、昔のひとにとってもきっと両面の際立った季節だったのだろう。