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映画『ソラニン』のロケ地

大学時代から好きだった漫画に、若いバンドマンを描いた『ソラニン』がある。このソラニンの映画版では、東京の片隅にあり、小田急線沿線にある狛江市の和泉多摩川駅周辺がロケ地として使われている。

芽衣子と種田の暮らしたアパートや語り合った河川敷、ボート乗り場など、この小さな町がソラニンの世界の舞台になっている。原作の漫画版に登場する商店街や多摩川の細かな描写も、この和泉多摩川の景色と一緒なので、浅野いにおさんも、この町をモデルにして描いたのだと思う。

多摩川沿いを歩くと、東京とは思えないような、とても穏やかな景色が広がっている。冬には遠くに綺麗な富士山が見え、春は桜の木々が弧を描くように伸び、風景が季節ごとの優しい色合いを見せてくれる。

東京は今日、
ちょっといい天気で、

いつものように
小田急線が走ってて、

多摩川では
恋人達が
ボートをこいでいた。(浅野いにお『ソラニン』)

ときおり、河川敷で映画やドラマの撮影をしている光景に遭遇する。色々な「ドラマ」のロケ地になる理由も分かる気がする。都心から近いというのもあるだろうし、なによりここは、物語を注ぎ込める静かな余白で溢れているのだと思う。

昔の小田急線の喜多見、狛江、和泉多摩川駅

狛江市にある小田急線の駅は、喜多見駅、狛江駅、和泉多摩川駅の三駅がある。喜多見駅は正確には世田谷区になるものの、隣の成城学園前と比較すると狛江のほうが近いこともあり、狛江市の人でも利用することは多い。

この三駅も含め、小田急線の懐かしい景色を載せた『懐かしの小田急線』という本があり、この写真集を見ると、色々と感慨深いものがあった。

喜多見駅

この写真は、昭和三十年(一九五五年)の喜多見駅を写した一枚。今から半世紀以上前で、さすがに全く面影がない。駅の横に桜の木が立ち、木の下には、自転車が二台停まっている。駅出入り口には小学生くらいの男の子が寄りかかっている。

右側に、「たばこ」と書かれた売店のようなものがある。静かな春の日常だなと思う。

狛江駅

この写真は、昭和三十八年(一九六三年)の狛江駅。駅前で人を待っている男性や女性がいる。新聞紙が揃った売店もあり、男性の雰囲気は、今とあまり変わりがないように見える。

和泉多摩川駅

この写真は、昭和三十年(一九五五年)の和泉多摩川駅と線路。夏の午後の日差しをよけるように、日傘を差した女性が踏切を渡っている。駅のホームが相当短い。この頃はまだ一両から二両くらいの列車だったのかもしれない。

どの駅も、当然ながら今と全く違うなと思う。

昔の多摩川

昭和三十七年(一九六二年)の多摩川の光景を捉えている。今は一つしかないが当時は多くの貸しボート屋があったようで、とても賑わっている。この写真は左側半分なのだが、右側には嘘のようにたくさんのボートが川に出ている。釣り人も大勢いる。

一方、この時代は、徐々に多摩川も汚染問題が深刻化してきた頃でもあった。昭和二十年代は多摩川の水は本当にきれいで、川底まで見えるくらいに透き通り、子供たちが毎日のように学校終わりに泳ぎに行くなど、絶好の遊び場だったと言う。しかし、昭和三十年代に入ると徐々に汚染が始まり、狛江の町内でも子供たちの遊泳が禁止になる。その結果、学校にプールができ、子供たちはプールで泳ぐようになったそうだ。

もう一枚の写真は、昭和四十五年(一九七〇年)の多摩川の夏の日の出と一番列車だ。和泉多摩川と登戸を繋ぐ鉄橋を渡ってくる可愛い小田急線。

この『懐かしの小田急線』は、新宿から始まり、代々木上原や下北沢、経堂、成城学園前、狛江、さらに神奈川に入って新百合ヶ丘、本厚木、相模大野、藤沢まで、小田急線沿いの駅や、線路沿いの家々の風景が写されている。

失われてしまったものと、今も残されているものを感じさせてくれる写真集だ。

多摩川の貸しボート屋としゃぼん玉

登戸と狛江のあいだを流れる多摩川に架かる「多摩水道橋」。ちょうど多摩水道橋の真ん中辺りが、東京と神奈川の県境にもなっている。登戸方面に買い物に行くときは、いつもこの橋を渡っていく。

この辺りは、橋が架かる以前は、もともと「登戸の渡し」と言われる渡し舟があったそうだ。しかし、昭和二年の小田急線開通で渡し舟の利用者は激減、さらに昭和二十八年には歩道と車道の橋も架かったことで同年「登戸の渡し」は廃止になる。この「登戸の渡し」は、数ある多摩川の渡し舟のなかでも割と遅くまで残っていた区間のようだ。

以前、狛江市内の小さなギャラリーで開かれた多摩川に関する浮世絵展では、府中の渡し舟の様子が描かれた絵(葛飾北斎「富嶽三十六景 武州玉川」)も飾ってあった。

この渡し舟の廃止後、今では、漫画『ソラニン』でも描かれている貸しボート屋が営まれている。

この貸しボート屋「たまりや」のおじさんは、もともと渡し舟を営んでいた家の方のようだ。

狛江がまだ農地ばかりだった昭和十七年、谷田部靖彦さんは多摩川の「渡し」を営む家に生まれました。以来、多摩川と共に人生を歩んできた谷田部さん、鉄道や橋が開通し、渡しが役割を終えた後は都心からやってくる水遊びの人々のために五隻の船から貸しボート屋を始めました。(WEST TOKYO 仕事図鑑 VOL.05 貸しボート屋)

登戸側にも「のんきや」という貸しボート屋さんがあったが、街の開発工事のため店を閉じることになってしまったと言う(その後、「たまりや」も主人が亡くなり、今はもう貸しボート屋さんはなくなっている)。

橋は、老朽化もあり、新たな架橋がつくられ、現在の「多摩水道橋」になったのは二〇〇一年のこと。その多摩水道橋を、和泉多摩川から撮った最近の様子。カメラを持って撮影している人もときおり見かける。

今では、登戸も電車で一駅、二駅で、歩いても割とすぐの距離にあるが、橋がなかった頃は、対岸というのも、ずいぶんと遠いものだっただろうなと思う。

ちなみに、この多摩水道橋の和泉多摩川側に、座って休めるちょっとした休憩所がある。自転車で長い距離を走ってきた人や、散歩中のおじいさんおばあさんが休憩スポットとして活用していることが多いようだ。この休憩所に、屋根がついているのだが、最近ふと、屋根の上に小さなモニュメントのようなものを発見した。

麦わら帽子をかぶった幼い少年が、多摩川の空に向かってしゃぼん玉を飛ばしている。五年以上住んで、初めてその存在に気づいた。