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三浦しをん『風が強く吹いている』

 

 

正直、漫画やアニメではなく、文章のみでスポーツの臨場感やスピード感を表現するのは難しく、読んでいてもきっと興ざめするんだろうなと、これまでスポーツ関連の小説はなるべく避けてきた。しかし、箱根駅伝を舞台にした、三浦しをんさんの『風が強く吹いている』を読むと、その臨場感や疾走感が、文字という静の媒体にもかかわらず、見事に表現されているように思えた。

高校で不祥事を起こした天才ランナーのカケルは、不祥事の騒動から逃げるように陸上部のない都内の大学に入学する。カケルは、貧乏のため野宿をしながら万引きを繰り返していた。あるとき、万引きしたカケルの走り去っていく後ろ姿フォームの美しさに、小説のもう一人の主人公であるハイジが心を打たれ、自分の住んでいる竹青荘(通称アオタケ)に招き入れることから、物語は始まる。

カケルを加え、ちょうど十人になった竹青荘の住人たちに、ハイジは、「このメンバーで、箱根駅伝を目指そう」と言う。それぞれが特徴や悩みを抱えている竹青荘の住人たちは、走ることに関してはほとんどがまるっきりのど素人だ。竹青荘の住人たちは、ハイジのこの突拍子もない発言に、当初こそ不平をこぼしていたものの、徐々にチームは結束し、継ぎはぎだった陸上部が、次第に「箱根駅伝」という大きな目標に向かって走り出していくことになる。

小説の世界では、彼らの所属する寛政大学は、成城学園前と祖師ケ谷大蔵のあいだくらいに建っている、という舞台設定になっている。自分自身が、距離的に近い街に住んでいるので、馴染みの場所ということから親近感もあり、その辺りも読みやすさに繋がっていた。

寛政大学は、架空の学校で、モデルは法政大学という声もあるが、どうやら作者が取材に行った大学が法政大学だった、ということのようだ。ただ、法政大学の陸上部は名門であり、この辺りで成城学園前と祖師ヶ谷大蔵のあいだと言うと、モデルかどうかは分からないが、成城大学も考えられる。

途中、寛政大学陸上部が、練習の一環として多摩川まで走っていくシーンがある。成城の住宅街から急勾配の坂を下り、野川を抜け、小田急線を眺め、多摩川の河原に辿り着く。そのシーンを読んでいると、ああ、この町をカケルが走り抜けていったんだなと、不思議な気持ちになった。

設定こそ、漫画やアニメのような話かもしれない。しかし、風景や心情の描写が繊細で、また物語の展開の仕方も、まさに「駅伝」のように順番に主人公が入れ替わる形で疾走感を持って紡がれていることから、文庫本で六〇〇ページを越える長編作品にもかかわらず、あっという間に読み切ることができた。

余談になるが、僕は、子供の頃から箱根駅伝が好きで、年明けになると胸を高鳴らせながらテレビの向こうで大学生たちが走っている姿を見つめていた。今でも、甲子園の出場選手と箱根駅伝のランナーは、不思議と年上のように映る。きっと「あの頃」に戻って画面を眺めているからなのだろうと思う。

馬場未織『週末は田舎暮らし─ゼロから始めた「二地域居住」奮闘記』

 

 

ある夫婦が、平日は東京で働き、週末は房総半島で暮らすという「二地域居住」の生活を、子供と一緒にゼロから始めた際の体験談を綴った、ノンフィクションのエッセイ本『週末は田舎暮らし』。写真が多いこともあり、イメージも沸きやすく、語り調も織り交ぜながらの文章なので、とても読みやすい本になっている。

本の著者である馬場未織さんは、幼い頃から「コンクリート砂漠」で育った、建築が専門の女性ライターで、家族は激務に追われる夫と、三人の子供、そしてネコ、キジなど途中から野性味が溢れていく。

馬場さんの房総半島と東京の「二地域居住」のスケジュールは以下の通りとなっている。まず、平日は都心で働き、金曜の夜になると子供と一緒に車に乗り込んでアクアラインを一時間半ほど走る。そして、ゆったりとした時間の流れる南房総の村の広大な土地と築百年の古民家で週末を過ごす。馬場さんが、田舎暮らし、二地域居住という選択を決断したきっかけは、夫のふとこぼした言葉だった。「子どもたちには財産らしい財産は残せないが、”田舎”という財産なら、残してやれるかもしれない。」

この言葉をきっかけに、最初は反対だった馬場さんも、徐々に「二地域居住」に乗り気になっていった。物件の場所は、南房総。広さは八七〇〇坪。古民家、農地付きでインフラ完備。ちなみに、気になる予算は、「ポルシェくらいの料金」とのこと。確かに、二地域居住は費用もかかるし、大変なことも多い。一方で、都会という目まぐるしい人工的な空間で、なるべく健やかに末長く深い呼吸をしようと思ったら、こういう生活が必要なのかもしれない。

馬場さんは、移動のあいだの「ゆっくりとスイッチが変わっていく感覚」を次のように綴っている。

アクアラインを境に、世界が切り替わる。

東京での脳的生活と、南房総での農的生活、これを行き来するスイッチが生活に組み込まれていることにより、今いる世界の輪郭が見えてきます。輪郭が見えるということは、外側から見る視点を持つということ。

つまり、たまたま自分が今いる場所が、世界のすべてではないという解放感を得ることです。(馬場未織『週末は田舎暮らし—ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記』)

自分が今いる場所が、世界のすべてではないという解放感。これは、子供にとっては特に大事なことのように思う。子供は、教室を筆頭に、大人よりもさらに狭い世界で生きることを強いられる。自分で移動もできないし、選択も難しい。学校で居場所を失ったとき、それは世界で居場所を失うことと等しい不安に襲われる。だから、虐められても黙って耐え忍び、必死に教室にしがみつこうとする。それ以外に仕方がない、と最初から決め込んでいる。子供には(本当は大人も同じだと思う)、あの場所だけが全てではないんだと思えるような、学校からの「逃げ道」や「隠れ家」が必要となる。

心にとって、どこか逃げられる場所が必要で、それは今ならネットの世界もあるのかもしれない。でも、そういったヴァーチャルな世界よりも、手触り豊かな自然のある世界の「隠れ家」のほうが、長い目で見たときに、心にとっても体にとっても、きっとよいことなのだと思う。