泉の森会館の展示会

狛江駅のすぐ近くに、泉の森会館という三階建ての建物があり、建物の二階には、こじんまりとしたカフェと個展などが開ける小さなギャラリーが併設されている。このギャラリーで、狛江の歴史を紹介した古い写真や資料の展示された、「狛江の発展と小田急線」という展覧会が開かれていた。

もう少し若い頃の僕なら、この「小さな展覧会」に見向きもせず、そのまま小田急線に乗り込み、六本木にある新国立美術館のモネ展に向かったかもしれない。でも、近頃は、遠い十九世紀のパリよりも、自分の住んでいる町がどのような変化を遂げ、今があるのか、という足元の歴史に興味が沸くようになった。

ギャラリーのなかに入ると、まず、小田急線を建設した実業家の方の写真やプロフィールが飾ってある。案内係のおじさんは、僕が色々と質問しても嫌な顔一つせずに丁寧に説明してくれた。案内のおじさん曰く、小田急線は、元々政治家でのちに実業家になった利光鶴松としみつつるまつさんが、昭和二年に開業したと言う。当初、計画には和泉多摩川駅のみで、狛江駅は入っていなかったものの、住民の要望で狛江にも誘致。なぜ「和泉多摩川」という小さな駅が、当初の計画から重要視されたのかと言うと、理由は、多摩川の「砂利」にあった。関東大震災や戦争の際に砂利が必要で、多摩川の砂利を都心の工場に運ぶ運搬手段として和泉多摩川駅が必要だったそうだ。

その他、展示物として、狛江駅および和泉多摩川駅の年代別の乗車人数の線グラフ(和泉多摩川は昭和三十年代くらいからほとんど変化がない)や、戦時中に家族が出兵を見送る狛江駅の光景を写した写真なども掛かっていた。古地図や白黒の写真が小さな部屋の壁に並び、歴史をかたどった展示物を順を追って眺めていく。それから、ふと、狛江の戦争被害について気になった僕は、「空襲の被害はこの辺りはなかったんですか」とおじさんに尋ねた。おじさんは、「狛江は軍需工場があったために、実は結構被害を受けたんです」と言い、戦後すぐの地図を指差した。地図を見ると、確かに学校の焼けた跡がくっきりと痕跡として残されていた。

また、狛江の自然災害についても尋ねてみた。この辺りで大きな自然災害と言えば、戦前の大地震「関東大震災」がある。関東大震災では、東京も相当な被害があったので、狛江も例外ではないと思っていた。でも、話を聞くと、関東大震災のときには意外にも狛江はほとんど被害はなく、むしろ物資を輸送する側だったそうだ。僕が以前見た、東京の地盤の固さを比較した調査によると、狛江の地盤はそれほど固くない、ということだったが、普段の地震による周囲の地域との揺れ具合の差などから、僕自身は体感的に地盤は結構固いという印象を持っていた。展示会のおじさんも、「狛江の地盤は固いほうじゃないかな」と言ってくれたので、僕は少し前のめりに「そうですよね」と頷いた。「じゃあ、大きな災害と言うと、多摩川の氾濫くらいですか」と僕が言うと、おじさんは、いったん頷いてから、「いや」と言った。「でも、あそこは、もともとは川の一部で、そこにあとから人家が建ったんですよ」

町の歴史と一口に言っても、「小田急線が開通した」といった町全体の歴史から、大昔以来ほとんど変化のない自然や地形の歴史。また、今は潰れてもうない床屋の話から、地元の中学生が初めてデートをした公園といった様々な階層の「歴史」がある。歴史というのは、色々な視点から複雑に編み込まれている一つの物語のようだなと思う。そして、こんな風に古い写真や資料に囲まれながら、昔から地元に住んでいる方の話を聞いていると、僕もその物語の一員なんだな、と不思議な安堵に満たされてくる。