星の見える東京
日記

狛江と多摩川の歴史にまつわる小さな展覧会

狛江と多摩川の歴史にまつわる小さな展覧会

狛江駅のすぐ近くに、「泉の森会館」という三階建ての建物があり、建物の二階には、こじんまりとしたカフェと個展などが開ける小さなギャラリーが併設されています。

このギャラリーで、狛江の歴史を紹介した古い写真や資料の展示された、「狛江の発展と小田急線(2015年9月1日〜7日)」という展覧会が開かれました。

正直、もう少し若い頃の僕なら、この「小さな展覧会」には見向きもしないで、そのまま小田急線に乗り込み、新国立美術館(六本木)のモネ展に向かったかもしれません。

でも、近頃は、はるか遠い19世紀のパリよりも、自分の住んでいる町がどのような変化を遂げ、そして、「今」があるのか、という足元の歴史に興味が沸くようになりました。

そのため僕は、この「小さな展覧会」に足を踏み入れることにしました。

ギャラリーのなかに入ると、まず、小田急線を建設した実業家の方の写真やプロフィールが飾ってあり、案内係のおじさんは、僕が色々と質問しても嫌な顔一つせずに丁寧に説明してくれました。

係のおじさん曰く、小田急線は、元々政治家でのちに実業家になった利光鶴松(としみつつるまつ)さんが、昭和二年に開業したとのこと。

当初、計画には和泉多摩川駅のみで狛江駅は入っていなかったものの、住民の要望で狛江にも誘致されます。なぜ「和泉多摩川」という小さな駅が、当初の計画から重要視されたのでしょうか。

理由は、多摩川の「砂利」にありました。

関東大震災や戦争の際に砂利が必要で、多摩川の砂利を都心の工場に運ぶ運搬手段として和泉多摩川駅が必要だったそうです。

その他、展示物として、狛江駅や和泉多摩川駅の年代別の乗車人数の線グラフ(和泉多摩川は昭和30年代くらいからほとんど変化がありません)や、戦時中に家族が出兵を見送る狛江駅の光景を写した写真なども掛かっていました。

不思議なグラフや古地図、モノクロームの写真が小さな部屋の壁にも並び、歴史をかたどった展示物を順を追って眺めながら、ふと、狛江の戦争被害について気になった僕は、「空襲の被害はこの辺りはなかったんですか」とおじさんに尋ねました。

おじさんは、「狛江は軍需工場があったために、実は結構被害を受けたんです」と語り、戦後すぐの地図を指差しました。地図を見ると、学校の焼けた跡がくっきりと痕跡として残されていました。

また、狛江の自然災害についても尋ねてみました。

この辺りで大きな自然災害と言えば、戦前の大地震「関東大震災」があります。

関東大震災では、東京も相当な被害があったので、狛江も例外ではないと思っていたのですが、話を聞くと、関東大震災のときには意外にも狛江はほとんど被害はなく、むしろ物資を輸送する側だったそうです。

僕が以前見た、東京の地盤の固さを比較したある調査によると、狛江の地盤はそんなに固くない、ということでしたが、周囲の地域との揺れ具合の差などから、僕自身は体感的に「狛江の地盤は結構固い」という印象を持っていました。

展示会のおじさんも、「狛江の地盤は固いほうじゃないかな」と言ってくれたので、僕は「そうですよね」と思わず前のめりに頷きました。「じゃあ、多摩川の氾濫くらいですか、大きな災害は?」と僕。おじさんは、いったん頷いてから、「いや」と言いました。「でも、あそこは、もともとは川の一部で、そこにあとから人家が建ったんですよ」。

町の歴史と一口に言っても、「小田急線が開通した」といった全体の歴史から、大昔以来ほとんど変化のない自然や地形の歴史、今は潰れた床屋の話から、地元の中学生が初めてデートをした公園といった様々な階層の「歴史」があります。

歴史というのは、色々な視点から複雑に編み込まれた物語。

そして、こんな風に古い写真や資料に囲まれながら、昔から地元に住んでいる方の話を聞いていると、僕もその物語の一員なんだな、という不思議な安堵に満たされてくるのでした。

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