春が怖い

まだ寒さは厳しいものの、この数日で日差しや風にほんのりと春が香るようになった。あと一月もすれば、多摩川沿いには菜の花が咲きはじめると思う。そして、そのあとにはいっせいに桜が咲き乱れる。

子供の頃の春は、「咲く」季節だった。でも、年齢とともに春は「散る」季節になってゆく。春の柔らかな風も、心地よさとともに閉じていた心の扉をふっと開けようとする。だから、ほんの少し、春が怖い。ざわざわとした不安と、春の悲しみに飲み込まれそうになる。

紀友則の春を詠んだ和歌に、「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」という歌がある。こんなに光ののどかな春の日に、なぜ桜は慌ただしく散っていってしまうのだろう、という春の優しさと儚さを歌ったものだ。

春は、昔のひとにとってもきっと両面の際立った季節だったのだろう。

雪でも鳥が鳴く

昨日、東京で久々の大雪だった。横断歩道の信号待ちのあいだ、次々と降り落ちてくる雪をしばらく眺めていた。それから、歩いていたら、どこからか鳥の鳴き声が聴こえてきた。なんという名前の鳥か分からないが、雪の降る日でも鳥は鳴くんだな、というのは発見だった。

この辺りでは、雪はあまり降らない。春がくれば桜は必ず見られる。他の地域から苗木を持ってくることもできる。でも、雪は違う。雪は、もちろん旅行や引っ越しで雪国に行くことはできたとしても、もしなんらかの事情で行けないようなら、縁がないと見ることができない。雪の降る木を持ってきて、庭や河川敷に植えるわけにもいかない。雪は、ただ受け身で待っている以外にない。

一生で一度も雪に触れないまま、という人もいるし、いつが人生で最後の雪になるか予想もつかない。友人関係でもあるような、「ああ、思えばあれが最後だったか」というのと似ている。雪の気まぐれや運命のいたずらで、もしかしたら、もうこの先ずっと出会えないかもしれない。

正月と満月

元旦は、朝少し休んでから、お昼にカメラを持って出掛けてきた。日差しは柔らかく、よく晴れた空の下、凧揚げをしている子どもたちが大勢いた。その子たちを遠くから羨ましげに眺める女の子に、お母さんが、「今度、凧買おうね」と慰めていた。

夜、建物の窓にうつった月が綺麗だった。振り返ると、大きくて丸いお月さまが夜空に浮かんでいた。正月と満月の組み合わせ(満月は正確には明日らしい)というのが、珍しいような気がして不思議な気持ちで眺めていた。