タイトルに惹かれて手にとったエッセイ集。作者の平川克美さんは、一九五〇年生まれ。昭和の戦後復興とともに成長し、また、この国が”末枯れる”とともに齢を重ねてきた。
平川さんは、経済成長至上主義とグローバリズムといった、これまでの「拡大志向」に異を唱える。日本は、老齢期に入った。今から約五十年前、一九六四年の東京五輪を契機に高度経済成長に突き進み、この国は新幹線のようにひた走ってきた。しかし、生まれたものは、やがて老いる。バブルの崩壊、人口減少、少子高齢化社会。これは自然の成り行きであり、文明化の必然である、と平川さんは言う。
この『路地裏人生論』では、フォトグラファーの高原秀さんの写真とともに、著者が、あくまで手の届く範囲の、東京の路地裏を、友人たちと散策しながら、ゆったりと、でも、確かな歩調で描写していく。
路地裏とは、ときに現実世界の裏側であり、記憶のすき間を覗くことでもある。読んでいるうちに、平川さんの生きてきた東京と、姿を変えていく東京とが交錯していく。喫茶店や銭湯、のんびりと流れる隅田川、遠くに見える富士山、つんと鼻奥に響く町工場の鉄の匂い。彼の記憶に残された風景と、目の前に取り残された昭和の景色が混ざり合っていく。
ある日、平川さんは、母を看取ったあと、箪笥のなかの遺品を整理していた。そのとき、ビニールの包装紙にくるまれ、タグのついたままの、たくさんの未開封の下着を見つけた。平川さんは、近くの商店街を歩きながら、生前の母の姿を想像した。老いた足を引きづりながら、カートを杖代わりに、使い道のない下着を買うために、この道を歩いていったのだろうか、と。
平川さんの母は、この町に嫁いできたあと、食材、文房具、台所用品などの買い物のため商店街に通っていた。徐々に商店街が廃れていっても、きっと、この日常の習慣だけは変えることができなかった。商店街の先の店で、顔見知りの店員と、ほんの少し立ち話をして、目についた下着を買い、家に帰っていく。そんな日々が続き、箪笥の奥に未使用の下着がたまっていったのではないか、と平川さんは思う。
ほんとうのところはよくわからない。
しかし、時代の流れが、母の日常を追い越して行ってしまったことだけは、確かなことのように思える。(平川克美『路地裏人生論』)
優しい文体で書かれた、著者の人生の追憶が、ちょうど戦後から今までの日本の歩みと重なって見えた。