江戸時代から振り返る、多摩川の歴史
多摩川沿いの狛江という街に引っ越して以来、少しずつ街や多摩川の歴史にも興味を持つようになり、以来、ときどき図書館などで調べ物をしている。
自分なりのペースで、まだまだ多くのことは分からないが、自分の住んでいる街について調べるのが楽しく感じるのは、狛江が初めてかもしれない。
この記事では、狛江を流れる多摩川と町の人々との結びつきの歴史について、江戸時代から順に書いておこうと思う。
多摩川と江戸時代
江戸時代の人々にとって、多摩川は生活上とても重要な役割を果たした。
徳川4代将軍家綱の時代、1654年に、多摩川の水を江戸中心部に導水する「玉川上水」が完成し、以降、江戸と多摩川の結びつきは深まっていく。
画像 : 玉川上水 (Photo AC)
江戸で大火事が起きるたびに、多摩川上流域の木々を伐採し、筏で送るなど、川は街の復興にも貢献したそうで、昔は、中・下流域のおける漁業だけでなく、こうした木材の筏流しも重要な産業となっていた。
漁業については、登戸や日野でアユ漁が盛んで、江戸城にも献上。捕獲された鮎は、「鮎担ぎ」と呼ばれる力自慢が夜通し走り、日本橋の鮎の問屋に届けられた。
鮎担ぎは、街道を走りながら、狸よけのために「鮎担ぎの唄」を大声で歌い、当時の住民たちが寝床で眠っていると、その歌声が遠くから聴こえてきたという。
江戸時代の多摩川の絵図
多摩川と昭和
江戸時代が終わり、明治以降、徐々に鉄道移動が普及。狛江、和泉多摩川を通る小田急小田原線も昭和二年(1927年)に開通する。
以前、狛江の歴史資料に関する小さな展示会に足を運んだとき、地元に長く住んでいると思われる男性スタッフの方に、多摩川の重要性について説明して頂いたことがある。
多摩川沿いの砂利は、昔から貴重な物資で、関東大震災の際や戦時中にも重要な役割を果たし、砂利を採掘しては鉄道で運んでいったそうだ。
狛江の市役所のホームページにも、次のような説明書きがある。
多摩川砂利は貴重な財産で、玉川電車も、京王電車も、小田原急行鉄道も、皆創業当時は砂利運びを大きな収入にしていた。小田原急行鉄道では、和泉多摩川駅の東側から河原まで線路を敷き、トロッコを川の中に引き込んで盛んに採掘していた。
掘った砂利は貨車に積み東北沢にあった砂利置場に運ばれて、都心のビルエ事や道路の舗装に使われていた。
出典 : 狛江市役所 – 多摩川の砂利
この多摩川の砂利採掘は、戦後の高度成長の礎ともなり、採掘の速度はぐんぐんと上がっていった。
復興や発展に貢献した多摩川の砂利だったが、しかし、弊害もあった。
高度成長前の昭和30年頃までは、和泉多摩川や登戸の周辺も、わざわざ都心から子供たちが泳ぎに電車で訪れ、「川の家」などが開設されていたものの、この過剰な採掘の影響によって川底がさらわれ、自然環境が壊れていくとともに事故が多発。結果、砂利採取は禁止されるようになった。
多摩川の砂利採取跡、1958年(『懐かしの小田急線』より)
加えて、人口増による家庭排水や工業排水の流入が河川を著しく汚染し、多摩川は、水泳のできるような川ではなくなっていった。
こうして夏に泳ぐ子供たちの風景だけでなく、風物詩でもあった鮎も姿を消すようになったのだった。
多摩川と平成
その後、多くの人々の努力によって徐々に多摩川の自然も戻り、少しずつ水もきれいになっていった。
きれいな川の水だけでなく、鮎も再び姿を現わすようになった。
鮎の味も、昔は人工的なシャンプーのような臭いだったのが、この数年は良くなりつつある、と古くからの住民の方は話す。
本来、鮎は「香魚」と言い、かつては春が訪れて天然の鮎が遡上してくると、甘いスイカのような清々しい匂いでわかったそうだ。
鮎は香魚といわれ、春になり鮎が上がってくると、かつては匂いでわかった。近い将来、鮎の遡上を香りで知るようになった時、本当に美しく自然豊かな多摩川が戻ったといえるのかもしれない。
出典 : 陣内秀信『水の都市 江戸・東京』
江戸の住民が五感で味わった多摩川とは、一体どんなものだったのだろうか。いつか香りでわかる春の到来を味わってみたいものだ