多摩川の夕陽

先日、田舎の母が狛江を訪れた際、どうしても多摩川沿いの夕陽を見せたかったので、河川敷を散歩しようと言った。

母と僕は、小田急線の高架下をくぐり、川沿いの大きな白いマンションの前を通り過ぎた。そして、三叉路のようになっている場所で一息つき、振り返ると、鉄道橋の向こうの夕陽を眺めた。寂し気でもあるし、誇らし気でもある、よどんだ心の泉に、ゆっくりと沈み込んでいくような夕陽だ。ああ、きれいだなぁ、と母は呟き、「長く沈んでいくねえ」と言った。太陽が、故郷よりも、長く沈んでいく。それは盆地ゆえなのだと、母は言った。僕の生まれ育った地域は標高の高い山がたくさんあるので、夕陽はこういう色を見せない。一時期、別の川沿いに住んでいたこともあった。でも、あの辺りは山ではなく建ち並ぶビルが早めに夕陽を遮った。海沿いに住んだこともなかった。だから、この多摩川の夕陽は、僕にとって今まで見たこともないような光景だった。それゆえに惹かれるのかもしれない。

もちろん、夕陽そのものは旅先などでも見たことがあるので、この街に住むようになったときの心情も相まって、僕は初めてちゃんと夕陽を「見た」のだと思う。もしかしたら、これから先、また違った美しい夕陽と出会うこともあるかもしれない。それでも、雛が最初に目にした鳥を親鳥だと思うように、僕にとっての夕陽は、きっといつまでもこの多摩川の夕陽なのだろうと思う。